3 木村蒹葭堂

木村蒹葭堂は、元文元年(1736)大坂の南西部、北堀江生まれ。通称坪井屋吉右衛門、名を孔恭、字を世粛、遜斎と号したが、一般的には書斎の名をとって蒹葭堂と呼ばれる。蒹葭とは芦のことで、彼の邸宅の庭に井戸を掘った際、芦が現れたことからこの名が付けられた。(芦は古来水辺であった大坂を代表する植物。)父の代から北堀江で造り酒屋を営む町人だった。享和2年(1802)67歳にて没。
 蒹葭堂は幼児期は病弱で、父の導きで草木花樹に親しみ、本草学を津島桂庵、小野蘭山に学び、多くの同学と交わって標本収集に努めた。絵画は僧鶴亭、池大雅らに就き、篆刻は高芙蓉に、詩文は片山北海に学び宝暦8年(1758)頃より定例詩文会を催し、混沌社の基礎を作った。そんな蒹葭堂の名前は大坂のみならず、諸国に知れ渡った。蒹葭堂の当時最高の知識や所蔵するコレクションを求めて、大坂はもとより遠国からも、様々な文化人が蒹葭堂を訪問した。
 日々の往来を書き留めた『蒹葭堂日記』は、現存する20年間の分だけでも、のべ9万人以上の人名が現れており、彼をとりまく交友関係がいかに広いものであったかを示すものとして注目されている。晩年は船場呉服町で文具商を営んだ。
木村蒹葭堂 貝石標本 -
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